鎌倉を離れた日蓮聖人は、信者であった南部六郎実長(なんぶろくろうさねなが)の招きを受け、現在の山梨県身延町に新しい草庵を設けました。

南部六郎実長は身延一帯の領主でした。

晩年の9年間はこの身延で過ごされます。

多くの信者からの給仕を受けながら、弟子信者の育成を行い、教団として確立されていきました。

日蓮聖人は、とても筆まめな方でした。

給仕をしてくれた人、遠方にいる信者、夫を亡くした信者に激励の手紙を多く書かれました。
その大半がこの身延で執筆され、現代にも大切に厳重に伝えられています。

そのお手紙が法要中に私たちが拝読する「祖訓」なのです

その一つのお手紙「諸経与法華経難易事(しょきょうとほけきょうとなんいのこと)」。

仏法ようやく顛倒(てんどう)しければ、世間もまた濁乱せり。仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲がれば影ななめなり。

訳 真実でない仏法が広まっているために、今の世の中が濁り乱れている。仏法はすべての本体であり、世間はそれによってできた影である。
体が曲がれば、できる影も当然斜めになってしまうものである。

この手紙は日蓮聖人が59歳の時、大信者であった富木常忍(ときじょうにん)宛に書かれた手紙です。

法華経は難信難解(なんしんなんげ)、信じ難く解し難いお経です。

しかしこの法華経こそがこの末法に伝えられた唯一の真実の教えです。

ところが難信難解であるために、他の教えを信じているものが多く、大きな過ちを犯していることに気付いていない、と指南しています。

このような弟子、信者を指導する手紙を多く執筆されました。

身延の生活は過酷であり、日蓮聖人の体は少しづつ病魔が蝕み始めていました。

弘安5(1282)年9月8日、弟子の勧めにより、湯治のため身延の山を下り、常陸へ向かいました。

池上宗仲(いけがみむねなが)の館に着くころは、自身で歩くこともできず、床に伏してしまわれました。

自身の死が近いことを悟った日蓮聖人は日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を本弟子・六老僧に定め、弟子の中で最年少であった「経一丸」に、日蓮聖人がなしえなかった京都での弘通活動を任せました。

伝えるべきことをすべて伝えた日蓮聖人は、同年10月13日、弟子信者が唱えるお題目の中、法華経弘通に61年の生涯を捧げられた日蓮聖人は入滅されたのです。

その時、大地がにわかに振動し、季節外れの桜が咲いたと伝えられています。

現代でも日蓮聖人のご入滅された10月13日には、東京 池上本門寺ではお会式法要が行われます。

しかし、この日は、日蓮聖人の死を偲ぶ悲しい日ではなく、お釈迦様の真実の教えである法華経の教えが凝縮されたお題目を私たちに伝えてくださった日蓮聖人に感謝の意を捧げる日として、万灯行列を出して、盛大に行うのです。

妙乗寺では10月30日(土)13時から、お会式法要を行います。どうぞご参拝ください。