龍の口法難のあと一命を取り留めた日蓮聖人。

文永8(1271)年、日蓮聖人50歳の時。

新潟の佐渡へ流罪となりました。

佐渡での生活は厳しく、塚原と言う場所の墓場にあばら小屋のような三昧堂で生活されていました。

鎌倉から流されてきた日蓮聖人の噂を聞きつけ、各宗派の僧侶や念仏の信者が問答に押しかけますが、ことごとく論破し、日蓮聖人の弟子となる者も多くいました。

中でも80歳を超えた阿仏房は熱心な信者になり、妻の千日尼とともに日々、日蓮聖人の身の回りのお世話をしました。

また佐渡では、日蓮聖人の教えを紐解く上で重要なお手紙である「開目抄(かいもくしょう)」や「観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)」を執筆されました。

その頃、鎌倉では国内の内乱が起こり、中国を統一した蒙古からの襲来(元寇)があり、「立正安国論」で予言した事が現実に起こっていました。
その動向を受けて幕府は日蓮聖人を赦免を決め、鎌倉へ戻られた日蓮聖人は再び幕府に対し、浄土を捨て、正しい教えに従うように説得しますが、聞き入れられるはずもなく、ついに鎌倉を離れました。