前回お話した松葉ケ谷法難が文応元(1260)年

日蓮聖人39歳の時

その翌年、幕府は日蓮聖人を捕らえ、伊豆への流罪に処しました。

鎌倉から日蓮聖人を乗せた船が出るとき、いつも一番近くでお仕えしていた日朗上人が「私も共に流罪にしてください」と役人に申し出ますが、舟をこぐ櫂(かい)で叩かれ、腕の骨を折られました。

何もできず、船を見送る弟子たちの耳には、日蓮聖人のお経の声がいつまでも響いていました。

役人は日蓮聖人を海上の岩の上に置き去りにしました。

潮が満ちて日蓮聖人の足元が海につかり始めたとき、伊豆の漁師 船守弥三郎が通りかかり、岸壁の洞窟にかくまい、妻とともに給仕をしました。

さて、伊豆の役人であった伊東祐光(いとうすけみつ)は病気で苦しんでおり、罪人である日蓮聖人に病気平癒の祈祷を依頼しました。

その祈祷のおかげで病気は治り、そのお礼にと海から出現したと伝えられるお釈迦様の像を寄進しました。

この像を日蓮聖人はいつも懐に入れ、生涯離さなかったと言います。

伊豆での流罪は3年で赦免となり、日蓮聖人は故郷である小湊へ戻られました。

日蓮聖人の母である梅菊が危篤状態だったのです

すぐさま病気平癒の祈祷をし、法華経一部を読誦し、その結果4年寿命のばされたそうです。

文永元(1264)年、日蓮聖人64歳の時
11月11日 当時、日蓮聖人の信者であった工藤吉隆の館に招かれました

その途中の小松原で、長年、日蓮聖人を妬み続けていた東条う景信の襲撃を受け、弟子であった鏡忍房と工藤吉隆が討死し、日蓮聖人も額を負傷されました。

これが、四大法難の二つ目である「小松原法難」です。