千葉の清澄山、昇る旭に向かって初めてお題目を唱えたのが、建長5(1253)年 日蓮聖人が32歳の時。

この時、名を「蓮長」から「日蓮」と改めて、法華経を日本に広めることを、宣言されました。

しかし、法華経には次のように書いてあります。
「この経を広める者は、必ず妬みや恨みを受け、大変な難に遭う」

それでも、日蓮聖人は法華経を一人でも多くの人に伝えることを誓い、立教開宗されたのです。

その当時は「飢饉や疫病が流行り、道端にたくさんの遺体が野ざらしにされていた」と日蓮聖人は書かれています。

当時、多くの民衆の信仰されていたのが、阿弥陀経。

「この世には仏様はおられない。今はせめて」『南無阿弥陀仏』と唱えて、あの世で阿弥陀様に助けてもらおう」
と言う教えです。

飢饉や疫病が流行っている原因を
「民衆が法華経ではない間違った教えを信仰しているから、国を守る神様が日本を捨ててしまわれた。」

「自分の身がどうなろうとも構わない!
 法華経こそが正しい教えであることを伝えなければ!」と決意されたのです。

立教開宗のあと、清澄寺には長年修行を積んで戻ってきた日蓮聖人の教えを聞こうとたくさんの人が集まっていました。
しかし日蓮聖人の話は、「あなた方の進行している教えは間違っている。法華経こそが正しい教えだ!」という予想に反した内容。
さらに「人々を救うという仏教の本来の目的を忘れ、役人や一部の僧侶たちは、地位や名誉を求めて欲望のままに生きている」と日蓮聖人は続けます。

その言葉に怒り出したのが、熱心な念仏信者で役人の東条景信(とうじょう かげのぶ)。
日蓮聖人に切りかかろうとします。

それを必死にかくまったのが、かつての師匠であった道善房。日蓮聖人は兄弟子二人の助けにより、無事山を下りました。

そして、数人の弟子を伴って日蓮聖人が向かったのが鎌倉の街。
当時、鎌倉は政治の中心地でしたので、多くの人が暮らしていました。

鎌倉の街でも日蓮聖人は念仏批判を行い、当然それが理解されるはずもなく、他宗派の僧侶は日蓮聖人を敵とし、良しとしませんでした。

文応元(1260)年 日蓮聖人39歳

日蓮聖人は、鎌倉幕府の最高権力者である北条時頼(ほうじょう ときより)に直接その考えを訴えようと、『立正安国論』を著しました。
その内容は「正しい教えに従わなければ、国が滅ぶ」という過激なもの。

その訴えが届くはずもなく、一か月後が過ぎました。
ある日の夕方、日蓮聖人の住んでいた小屋を数百人の暴徒が押し寄せ、小屋に火を放ちました。

これが、日蓮聖人の四大法難の一つ「松葉ケ谷法難」です

日蓮聖人は裏山に逃れ、いったん鎌倉を離れましたが、再び鎌倉に小屋を建て、布教活動を再開しました。

それを良しとしない他宗派の僧侶や信者、役人、幕府の役人も加わって、日蓮聖人を鎌倉から追放しようとたくらんでいたのです。