桜がいつの間にか散ってしまい、新緑の季節ですね

妙乗寺の前の3階建ての民家の屋上から藤の花が枝を下ろし、花を咲かせています

さて、今回は鎌倉時代の話です

鎌倉時代は、「日本史上で最も仏教が栄えた時代」と言われています

社会のいろいろな面が変わりました

まず、鎌倉幕府が成立して、貴族中心の政治から武家中心の政治体制へ

それに伴い、京都や奈良だけでなく、各地に都市が出来始め、それまで農業で生計を立てていた庶民が都市へ移り住み、商業が発達しました

政治、経済の変化と共に、日本仏教もその気運に触発され、新しい時代へと変遷していったのです

平安時代までの僧侶は「官僧」と呼ばれ、今でいう公務員のような地位を確立していました

国の規定により管理され、個人の救済よりも貴族の行う行事に専念していました

中には、その体制に満足していた僧侶もいたかもしれません

しかし、僧侶の役目は仏様の教えを広く伝える事です

「官僧」としての国からの束縛に嫌気がさした僧侶が庶民への布教をするために、各都市へと乗り出していきました

当時、庶民の間に広まっていた思想が「末法思想」

話が逸脱しますが、ここで「正法・像法・末法(しょうぼう・ぞうぼう・まっぽう)」の話をしましょう

お釈迦様が亡くなって500年間は、弟子たちによって正しくその教えが伝えられる「正法」

その後の1000年は、その教えが乱れ正しい修行が行われないために悟りを開く者がいない「像法」

さらにその後の10000年は、その教えもなくなってしまい、言うなれば「お先真っ暗」な時代「末法」の時代に至る、と言う思想です

さて、日本では、この「末法元年」が1052年だとあっちこっちで噂され、庶民の間で危機感が広がっていました。

この危機感から、庶民を救おうと立ち上がったのが、法然(1133~1212)と親鸞(1173~1262)でした

この二人の考えは
「この世は末法で救われないから、「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀様の救ってもらおう」と言う、「浄土経」の教え

つまりは『他力本願』です

「お先真っ暗」の世の中で、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われるという教え
大流行するのも当然の話です

この二人の教えは庶民だけでなく、武家の中にも広まりました

その教えを真向から批判したのが、日蓮宗の開祖 日蓮聖人です

やっとこさ、日蓮聖人の登場です

続きは次回にしましょう。