お待たせしました。

前回の続きです。

中国で漢訳されたお経は日本海を経て日本へ伝わります。

当然のことながら、当時は飛行機も丈夫な船もない時代です。それでも危険な日本海を渡って、命がけでお経を日本に持ち帰ってきました。

皆さんも昔小学校で習ったと思います。鑑真もその一人です。

何度も何度も失敗して、最後には失明しながらも日本にお釈迦様の教えを伝えようとした鑑真和上が思い浮かぶだろうと思います。

歴史の教科書に載っている鑑真さんの像(国宝)を私は東京・上野の国立博物館で目の当たりにしました。

他にも多くの苦難を乗り越えて日本に帰ってきた僧侶もたくさんいることでしょう。

そのような苦難に遭ってでも当時の人々は日本にお釈迦様の教えを伝えようとされたのです。

さて日本に、仏教が伝わったのは西暦552年であると「日本書紀」には書かれています。

当時の日本では、神道が主な宗教でした。

神道を薦める物部氏と、大陸から伝わった仏教を広めようとする蘇我氏の争いが始まります。

そんな動乱の時代に生まれた聖徳太子。

中国では隋が南北を統一し、お隣の日本も天皇中心の中央集権国家へと変わらなければならない時でした。

そこで、聖徳太子は仏教の教えをもって、国をまとめようとしました。

聖徳太子は仏教の教えに基づき「憲法十七条」を定めました

しかし、それは役人には「それまで政治で国を治めていたのに、なぜ今更、仏教なのだ?」と、受け入れられませんでした。

そこで、太子は仏教を学ぶ学問所を設立しました。

このように、仏教を広めることに勤めていた聖徳太子でしたが、志半ばで亡くなってしまいます。

この後、日本に仏教を広めたのは、太子の遺志を受け継いだ、遣隋使でした 

太子が亡くなって帰国した遣隋使は、若い役人や豪族の子供達に、仏教や儒教を説き広めました

中大兄皇子、中臣鎌足らもここで仏教と儒教を学んだのです。聖徳太子の意思は、しっかりと受け継がれていったのです。

※2回ぐらいでまとめるつもりでしたが、まだまだ長くなりそうです。 ということで、続きはまた次回・・・。